未来の日本人のあるべき志 桐山靖雄師の生きる教えを振り返る

私たちは平和を守るために歴史から何を学び、何を胸に刻むべきか。明治開国から約150年。父祖たちは過酷な時代を懸命に生き、今日の平和な日本の礎を築いてくれた。その間数次の戦争によってあまたの命が失われたが、父祖たちには戦わざるを得ない理由があった。祖国の安寧(あんねい)を願って命をささげた全ての同胞に感謝し、供養するとともに、平和への祈りを現実の力に変えていく―。これに尽した阿含宗開祖・桐山靖雄師は昨年8月29日に95年の生涯を閉じた。人生を悔いなく生きる教えと、国内外の戦跡巡礼を続けた桐山師の実践躬行(じっせんきゅうこう)を振り返り、未来の日本人のあるべき志について考える。 (上島嘉郎)

聖地エルサレム

イスラエル護摩全景

それは幻想的な絵画を思わせる光景だった。眼下にエルサレムの旧市街が広がり、ユダヤ教の「嘆きの壁」、キリスト教の「聖墳墓教会」、イスラム教の「岩のドーム」の三聖地を一望する「平和の森公園」で、桐山師の指揮による「イスラエル建国60周年奉祝・世界平和祈念 イスラエル大柴燈護摩供」が厳修されたのは平成20年9月のことである。

夕刻、護摩壇に点火され、白煙と炎が上がると風に流され眼下の街並みを煙らせていく。会場を埋めたエルサレム市民にも、何事か神聖な営みであることはわかっているようで、彼らの瞳は神秘的なものを見つめる静けさをたたえていた。
燃え盛る紅い火影の遠くには黄金に輝く岩のドーム、その奥に聖墳墓教会の丸い屋根、エルサレムの象徴ダビデの塔も見え、目前では山伏姿の阿含宗信徒が一心に護摩木を投入する姿、かなたには黄昏に沈んでいくエルサレムの旧市街・・・東西の歴史と信仰の深遠なるものが交錯する時間が流れていた。

イスラエルの地は、三千数百年にわたりさまざまな民族がそれぞれの神とともに行き交い、諍(いさか)いを繰り返しながら今日に至っている。この重層的で輻輳(ふくそう)した歴史に生きる一神教の民に、互いを殲滅(せんめつ)し合うような深刻な対立を抱えたことのない、わが日本人の多神教的宗教観や世界観はどのように映ったか。

桐山師は当時こう明言した。
「平和には2種類ある。争いと争いの間に訪れるわずかな期間の平和と、恒久平和だ。恒久平和の実現には道なお遠い現実を前に、果たして私は心の底から命懸けで平和を祈ってきたかと反省している。祈りは人を浄(きよ)め、人を高める。そして、それぞれの民が同胞の殉難者を慰霊し、誇りに思うことは、決して異教の民を攻撃し、排斥することではない。国や共同体のために殉じた人々を慰霊し、感謝することと、国や共同体の枠を超えて世界平和を祈る行為は矛盾しない」

そこには、日本人が持つ多神教世界の寛容さを示そうとする桐山師の“挑戦”があった。このときの法要を記念するモニュメントの建設がエルサレム側から提案され、阿含宗立宗35周年の平成25年8月、同市内の植物園に仏陀釈尊の仏舎利塔が建立された。式典にはイスラエルの国会議長、エルサレム市長らが列席した。聖地エルサレムに、異教である阿含宗の平和への祈りが受け入れられたのだ。

「靖国」で会おう

桐山管長

桐山師は世襲の僧侶ではない。大正10年に横浜で生まれた桐山師は、苦学しながら作家をめざす青春時代を過ごした。結核に冒され大量喀血(かっけつ)したため、先の大戦時は療養生活に打ち過ぎ、戦場に向かう学友を見送るしかなかった。

「彼らの多くが還ってこなかった。私の代わりに戦ってくれた。赤紙(召集令状)が来ればそれに応じ、突撃と命令されれば突撃する。私もその覚悟だった。今日の価値観からすれば、なんてバカなヤツだといわれそうだが、当時の若者にとって“国を護(まも)る”という思いは普通だった。命は一つしかないのは分かっているが、誰かのために、何かのために命を懸けることはある。生かされた私は、“申し訳ない”という心の痛みを抱えた。悩み抜いて、彼らの死を無駄にしないことが責務と覚った。それは、“靖国で会おう”と言って逝った彼らへの感謝を忘れないことでもあった」

後年こう語った桐山師だが、戦後は本復しない体にむち打って、父が抱えた負債の処理に追われる毎日だった。水産関係の仕事に活路を見いだすものの、輸送機関の悪条件がたたって逆に負債を大きくしてしまう。債権者に連日責められ、行き詰った桐山師は、死に場所を求めるかのように、父が残した廃工場に赴いた。

「次第に生きているのが面倒になり、いっそ死んでしまえ、という心境になった。戦場に斃(たお)れた学友のことも忘れ、死神に取り憑(つ)かれていた。あの梁(はり)に縄をかけて、と思い天井を見上げると、背の高い棚から『凖胝(じゅんてい)観音経』が収められた小さな経巻が落ちてきた。それは父と縁のあった人が、自分の命を救ってくれた人たちへの恩返しとして、一生に何十万巻かの小経本を布施することを念願したうちの一巻だった。
経巻を手にした刹那(せつな)、これは自分を救おうという何か大きな目に見えない意志が働いているのではないか、その意志に従うべきではないかと思い、『死ぬのをやめよう』『生きよう』と自分自身に誓った」

再起を決意した桐山師は、その後3年間死に物狂いで働き、負債を完済する。
「その頃は宗教家になろうなどとは思っていなかったが、首を吊ろうとしたときに『凖胝観音経』と出合ったこと、あの不可思議な瞬間がなければ、私は借財を背負っての自殺者になっていた。『生きよ』『受けた恩を布施せよ』と何かに命じられ、人生が決まった」

使命感を抱いた桐山師は、昭和29年、横浜・生麦で阿含宗の前身である「観音慈恵会」を設立する。その後、密教門に入り、さらに修行を重ねた。世襲ではない、また既存仏教ではないゆえの逆風の中、独立独行(どくりつどっこう)の道を歩み、昭和53年、仏陀直説の『阿含経』を依経とする「阿含宗」を立宗した。
阿含宗は「先祖供養の総本山」を掲げている。人間はみな独りではない。家族、同胞への思い、連綿と続く命の絆は、今生きている者同士にだけあるのではなく、死者との間にもある。

「時空を超えた同胞としての絆を大切にする。直接的な血縁だけでなく、日本人に生まれた“縁”を、己の人生の中でいかに受け止め、生きてゆくか。ご先祖と共にあるという感覚なくして日本人に未来はない。そしてそれこそが生きる力の源泉である。
だから私は祖国のために戦った英霊が祀(まつ)られている靖国神社に参拝する。同じ日本人でありながら、なぜ靖国神社に行くなという人がいるのか、全く解せない」
桐山師は靖国参拝について幾度(いくたび)も「千万人と雖(いえど)も吾往かん」と語っては莞爾(かんじ)として笑った。

洋上法要を挙行

ガダルカナル法要

父祖たちはなぜ戦わなければならなかったのか。

「過酷な帝国主義の時代に開国したわが国がどれほどの辛酸に耐え、白人列強との不平等を克服し、国としての『独立』を全うしようとしたか。当時の日本はABCD包囲網(米英中蘭による資産凍結・石油禁輸)によって経済的に喉頸(のどくび)を絞められていた。どうするのだ、と日本中が悲鳴をあげそうになっているのを私も肌で感じていた。あの戦争は日本が好んで起こしたのでなく、極限まで追い詰められ、やむなく自存自衛のために立ち上がったもので、なぜこの事情が今の日本人には分からないのか。敗戦という結果から当時の日本人は誤っていた、無謀だったと非難し、決めつけるのはあまりに短絡的だ」
桐山師は今日の政治家やメディアの多くが歴史の実相を知らぬことを嘆いた。

先の大戦の日本人戦没者は約310万人、うち海外での戦没者は約240万人とされる。遺骨となっての帰還すらかなわぬことを承知で戦った英霊の間近で成仏供養をするとの桐山師の旅は、昭和52年に独立前のパラオ諸島から始まり、以後沖縄、広島、ハルビン、シベリア、台湾、ガダルカナル、パプアニューギニア、フィリピンなどに及ぶ。

陸上だけではない。「海戦で斃(たお)れた英霊の多くが今も海底に眠っておられる。ならばその洋上に行き、少しでも近くからご供養し、御霊をお連れしよう」との思いから、桐山師91歳の平成24年、日米両海軍が大規模な戦闘を繰り広げた太平洋上を巡る「洋上法要」が挙行された。航程は横浜港をたって硫黄島沖、沖縄、バシー海峡、台湾(高雄)、鹿児島県坊ノ岬沖、神戸港帰着と約7800キロに及んだ。

テニアン法要

26年11月には、昭和19年に玉砕したサイパン、テニアン両島での戦没者の成仏供養を厳修した。サイパンは日本にとって一個師団規模の部隊が玉砕し、多くの一般住民を巻き添えにした初の島で、両島を失陥したことで米軍による本土への無差別爆撃を許すことになった。昭和20年8月、広島、長崎に原爆を投下した戦略爆撃機B29が発進したのはテニアン島である。
来賓のテニアン市長は「原爆投下によって戦争終結が早められた」と述べたが、法要終了後、桐山師は「原爆投下は納得しがたい」とはっきり語った。今日米国との友好関係は重要だが、広島、長崎の原爆を含め、50万人以上が犠牲になった無差別爆撃(殺戮(さつりく))は看過できない。戦争の歴史はいつの時代も勝者の側からの見方が正当とされがちだが、桐山師の言葉には「日本人よ、それに屈せずに堂々と父祖の意志を語り継げ」という日本人としての矜持(きょうじ)があった。

桐山師は毎夏、靖国神社に昇殿参拝するとともに、同じ日の夕刻、靖国神社に近い国立千鳥ケ淵戦没者墓苑において盂蘭盆会(うらぼんえ)の法要を執り行ってきた。靖国に祀られる英霊、墓苑に眠る御霊、それぞれの献身に感謝し、安らかならんことを祈って―。昨夏もそれを務め、さらに各地をめぐっての帰路8月29日、師は信徒の前に安らかな笑みをたたえたまま卒然と逝った。

靖国参拝

桐山師は、若者たちへのメッセージを求められるとよくこう語っていた。
「人生を悔いなく生きる、完全燃焼するということは、ただ長生きするということではない。自分の信じた道を往(ゆ)くことだ。戦う必要があるときには戦わなければならない。恐怖や不安に負けてはいけない。困難に立ち向かっていくことだ。たとえやせ我慢でもいいじゃないか。やせ我慢の連続が自分を鍛え、事を成すことにつながっていくものだ。私の修行がまさにそうだったよ」

そして最晩年には「戦地に散った友から“生き残ったにしちゃあ、あいつは立派だった”といわれたい、そんな見栄があるんだよ」と笑っていた。その師の情熱と遺志は信徒たちに引き継がれ、今年も2月11日、数えて44回目となる「阿含の星まつり」が開催される。そこに燃え盛る炎は日本の安寧と弥栄を祈って、きっと京都の冬空に赤々と映えるだろう。

昨年10月16日に桐山師の阿含宗葬

阿含宗宗葬護摩法要

桐山師の阿含宗葬は平成28年10月16日、阿含宗本山総本殿で営まれた。式は阿含宗弥栄神授雅楽部による「浦安の舞」で始まり、阿含宗修験太鼓の指導者で歌舞伎・長唄の囃子方藤舎一門の藤舎呂悦師による小鼓「靖聖魂厳隠(せいしょうこんげんおん)」の演奏、京都先斗町芸妓衆の舞踊「阿含の祭礼」など、型破りの宗教家であった桐山師にふさわしい歌舞音曲が続いた。

阿含宗本山僧侶とともに中国、スリランカ、ブータンと、北伝・南伝・東伝の各仏教僧侶が一堂に会し桐山師の師を悼んだ。深田靖阿管長を導師に「阿含宗開祖 桐山靖雄大僧正 阿含宗葬 護摩法要」が営まれ、さらに信徒を代表して阿含宗理事の藤達男氏が桐山師への「報恩感謝」と「志」を受け継いでいく決意を述べた。

宗葬には作家の石原慎太郎氏の姿もあった。サイパン・テニアンの法要にも同行した石原氏は桐山師との40年来の交際を通じ「まことに稀有(けう)な宗教家」として強い感銘を受け、「この日本という国を、素晴らしい愛国者の一人としてやさしく見守って導いてくださるようお願いする」と弔辞を述べた。台湾の元総統李登輝氏からの弔電が披露されたほか、内外の仏教関係者、各界要人からも多くの弔電が寄せられ、桐山師の生涯の巨(おお)きさを物語った。総本殿の建物内だけなく境内も弔問の信徒で埋まり、燈明に照らされて焼香は深夜まで続いた。

関連サイト
  • いべさん
  • ウェーブ産経
  • 産経グループ各紙ご購読はこちら
  • フジサンケイグループ
ページ先頭へ戻る