世界平和を祈り 戦跡巡礼「阿含宗世界平和祈念 樺太・千島・北太平洋戦没者成仏供養 北方洋上法要」

英霊と民間人犠牲者の憤りと無念汲む

桐山師の遺志は信徒たちによって受け継がれていく(写真は平成24年7月、硫黄島での洋上法要)

世界のいずれの国々も、その受難の歴史の中で同胞のために殉じた人々を慰霊し、感謝の誠をささげることは国の安穏の礎であり、国や共同体の枠を超えて世界平和を祈る行為の前提となる。この思いをもって約40年にわたり国内外の戦跡巡礼を続け、昨年8月遷化した阿含宗(あごんしゅう)開祖・桐山靖雄師。その遺志を継ごうと同宗本庁・和田尚子理事長ら桐山師の直弟子と信徒らが、師の念願だった日本の北方戦域での戦没者を供養するため、このほど巡礼船を仕立て「阿含宗世界平和祈念 樺太・千島・北太平洋戦没者成仏供養 北方洋上法要」を挙行した。桐山師の長きにわたる実践躬行(じっせんきゅうこう)の意味と、それを受け継ごうとする阿含宗信徒が今の日本社会に問いかけるものは何か―。 (上島嘉郎)

桐山靖雄師の思い受け「北方洋上法要」

日本は明治開国以後、過酷な帝国主義の時代にあって独立を全うすべく、日清、日露の両戦役から昭和の大東亜戦争までを戦った。父祖たちには戦わざるを得ない理由があった。後世を信じ、命を投げ出して今日の平和な日本の礎を築いてくれた御霊の間近で成仏供養をするとの桐山師の旅は昭和52年、独立前のパラオ諸島を皮切りに沖縄、広島、ハルピン、シベリア、ガダルカナル、パプアニューギニア、フィリピン、サイパンなどに及んだ。

大泊で行われた護摩法要

和田理事長はこう語る。

「猊下(げいか)ご自身が戦争に行けなかったこと、生き残られたことに特別の思いを抱かれていました。当時不治の病と言われた結核に冒され大量喀血(かっけつ)して、先の大戦時は療養生活に打ち過ぎ、戦場に向かう学友を見送るしかなかったとおっしゃっていました」

桐山師は生前、「病躯(びょうく)を押して私もいつの日か戦場に、という思いだった。当時の若者にとって“国を護る”のは当たり前だった。健康だったら学友と一緒に戦い斃(たお)れて靖國神社に祀(まつ)られていたかもしれない。それは紙一重で、身代りになってくれたという感謝の念が自然に湧いてくる。生かされた私は、“申し訳ない”という心の痛みを抱え、悩み抜いて、彼らの死を無駄にしないことが責務だと覚った。血縁に関係なく私は彼らの“遺族”なのだ。彼らをご供養し、さらに靖國神社に参ってお礼を申し上げるのは日本人なら当然というのは、こうした体験と思いがあるからで、“靖國で会おう”と言って逝った彼らへの感謝を忘れては日本に未来はない」と語っていた。

桐山師は国内外を巡りながら、「北方でも激しい戦いがあった。その戦(いくさ)で斃れた英霊のご供養がまだ済んでいない」との思いを幾度も吐露し、それを受けて和田理事長らは「北方洋上法要」の実現を目指した。準備を積み重ね、樺太での護摩法要についてロシア側との交渉が調(ととの)ったという報告を笑顔で受けると、桐山師は後事を直弟子に託して逝った。

任重くして道遠し―。修行者として師の教えを受け継ぐ。和田理事長をはじめとする信徒一同は、この決意を胸に刻んだ。そして、平成19年7月に桐山師がロシア・ハバロフスクで「シベリア大柴燈護摩供」を奉修してからちょうど10年目、パラオ諸島の法要から40年目の今年、6月末から1週間にわたって樺太・千島・北太平洋を巡る洋上法要の旅を実現させた。

大型客船をチャーターしての巡礼船は6月30日午後、和田理事長、法務を担う僧侶、信徒ら約500人を乗せ、北海道・小樽港を発って樺太・大泊(おおどまり・コルサコフ)に向かった。真正仏舎利(ぶっしゃり)とともに開祖眞身舎利を奉安しての旅路である。

その出港に合わせ、樺太の旧日ソ国境線(北緯50度)近くの気屯(けとん・スミルヌイフ)で6月30日、先発した僧侶らが日本政府建立の樺太・千島戦没者慰霊碑を前に護摩供を奉修した。大泊から約400キロ、難路を耐えての法要は「御霊のより近くで」との開祖の遺志を遂げる力行(りっこう)だった。

巡礼船でも、出港間もない留萌(るもい)沖で「樺太引揚三船殉難者成仏供養洋上法要」が深田靖阿法務管長を導師に船内で営まれた。昭和20年8月22日、樺太からの避難民を満載した小笠原丸、泰東丸、第二新興丸の3隻がソ連潜水艦の攻撃を受けた。小笠原丸と泰東丸は沈没、海軍の特別砲艦だった第二新興丸は船尾を破壊されながらも、浮上した潜水艦に砲戦を挑み、何とか留萌港に辿り着いた。ポツダム宣言受諾(終戦)から1週間を過ぎてなお、ソ連軍は引き揚げ船を攻撃し、約1700人の犠牲を強いたのである。

大東亜戦争末期の昭和20年8月9日(日本時間)、ソ連は翌年4月まで有効だった日ソ中立条約に違反して日本に宣戦布告した。スターリンは日本が連合国との和平仲介を必死に乞うているのを知りながら、中立条約違反については米国の参戦要請をもってそれを阻却できると考え、満洲と樺太で侵攻を開始した。

日本は第5方面軍(北海道・南樺太・千島列島を作戦地域とする軍部隊)麾下の第88師団が樺太、第89師団が南千島、第91師団が北千島を守っていた。ソ連侵攻当日、第88師団は「樺太防衛のため決起せんとす」との師団長命令が下され、各部隊は民間人避難のためソ連軍に対峙した。

しかし、15日に日本政府がポツダム宣言を受諾すると、事態は日本軍を苦境に立たせた。米軍の攻撃は停止され、日本軍も16日午後に「即時戦闘行動停止」が下令された。第5方面軍も全将兵に自重を要望したが、ソ連軍は攻撃を停止せず拡大した。それに対し各部隊は防衛行動に徹し、戦い続けたが、民間人を守れない悲劇が数多(あまた)起きた。

北方洋上の英霊への感謝の気持ちを込めた散華が投じられた

例えば恵須取で町長と警防団員らがソ連軍に銃殺され、上恵須取に向かう避難民にソ連軍機が無差別に銃爆撃を繰り返したのは8月16日。大平炭鉱病院で最後まで負傷者の看護に当たった看護婦10人が避難をあきらめ集団自決をしたのは同17日。通信維持のため電話交換の業務を全うすべく真岡郵便局に残った9人の女性たちの自決は同20日だった。白旗を掲げ停戦交渉に臨もうとする日本軍の軍使が有無をいわせず射殺される“事件”も一再ならず起きた。

厚生労働省によれば、樺太・千島・アリューシャン方面での戦没者の合計は約2万4400人とされる。この数字はパプアニューギニアやフィリピン、インパールなどの戦場に比べればずっと少ない。

しかし、桐山師が特に「北方での戦い」に慰霊の思いを寄せたのは、平和に立ち返ったはずの8月15日以降もソ連軍の容赦ない攻撃が続いたこと、その理不尽に立ち向かわざるを得なかった英霊と民間人犠牲者の憤りと無念を汲んだからだった。

樺太の地に流れる朗々たる読経

日本統治時代の名残を残すサハリン州郷土歴史博物館

7月1日朝、巡礼船は曇り空の中を樺太・大泊に入港した。入国審査後、一行は戦前樺太庁が置かれた豊原(ユジノサハリンスク)に向かった。ガイドの案内で「勝利広場」(日本に勝利したという意味。旧ソ連の主力戦車が誇らしげに展示されていた)や栄光広場(樺太神社跡)サハリン州郷土歴史博物館(旧樺太庁博物館)などを見て回ったが、帝冠様式の歴史博物館以外に日本統治時代の名残を見いだすのは難しかった。

翌2日午前、亜庭(あにわ)湾を見下ろす小高い丘にある「平和鎮魂之碑」前で「樺太・千島・北太平洋戦没者成仏供養 神仏両界 護摩法要」が和田理事長、深田法務管長をはじめとする一行によって厳修された。祭壇に真正仏舎利と開祖眞身舎利、「御英霊御霊依代(よりしろ)」と「樺太千島御祭神御奉遷御社」が安置され、その前に小ぶりながら神仏両界の護摩壇が前後に2基配置された。

曇り空から薄日が差し、初めに公益財団法人・太平洋戦争戦没者慰霊協会による慰霊祭が行われた。秋上眞一代表理事による式辞に続いて参列者による国歌斉唱ののち、千葉縣護國神社、栃木県護国神社の両宮司による〈御神事〉が執(と)り行われた。参列者一同神道の次第に則って御霊と御祭神に頭を垂れる。

その後、深田法務管長によって護摩壇に火が灯されると、英霊に感謝するとともに平和への祈りが記された護摩木の山が燃え始めた。赤々と炎が立ち上り、樺太の地に参列信徒の朗々たる読経が流れた。

スターリンはヤルタ協定になかった北海道の分割(留萌から釧路に線を引いたその北側)占領をルーズベルトの死後米大統領に就いたトルーマンに要求した。トルーマンは日本占領における米国の主導権確保のためそれを拒否したが、にもかかわらずソ連軍は8月22日まで北海道上陸作戦の準備を続けた。ソ連軍の北海道侵攻を危うく防いだのはトルーマンの拒否だけではない。侵攻作戦の準備基地にするはずだった南樺太の占領を遅らせた第88師団やカムチャッカから攻め込んできたソ連軍と激戦を展開し幌筵(ほろむしろ)島以南に容易に侵出させなかった第91師団などの善戦敢闘があった。桐山師が御霊を慰めるとともに、満腔の感謝を捧げる成仏供養を是非とも修したいと願った所以(ゆえん)である。

生前の桐山師の切々たる言葉が法要会場に流れた。

「御霊に謹んで申し上げます。

皆さん、長い間どれほど苦しんだことでありましょう。本当に申し訳ありませんでした。心からお詫び申し上げます。しかし、今ようやくお迎えに上がることができました。皆さん、ご一緒に日本に帰りましょう」

こうした桐山師の言葉は、大泊を出港後、翌3日の「千島列島方面戦没者成仏供養洋上法要」でも、4日の「北太平洋方面戦没者成仏供養洋上法要」でも流された。そこには自分が新たに語るのではない、「英霊に感謝し、みんなで明日の日本と世界の平和を築いていこう」との開祖の遺志をあくまでも継いでいくのだという阿含宗信徒の決意が表れていた。

5日、巡礼船は三陸沖の太平洋を南下していた。「東日本大震災犠牲者・行方不明犠牲者成仏供養洋上法要」が営まれた。大震災は死者行方不明者1万8000人を超え、今も3万5000人が仮設住宅に暮らし、社会基盤の復興もはかばかしくない。それを他人ごととしない。同胞としての絆を結び直す。戦争であれ、災害であれ、生死紙一重の差で生かされた者の果たすべき役割を桐山師はずっと問い続けてきた。

2800キロの航海を靖國神社に奉告

7月6日朝、巡礼船は約2800キロの航海を終えて横浜港に帰着した。15日午後、和田理事長、深田法務管長と信徒代表がみたままつりでにぎわう靖國神社に正式参拝し、北方洋上法要の首尾を奉告した=写真。その宵、千鳥ヶ淵戦没者墓苑での阿含宗の盂蘭盆会(うらぼんえ)において、喇叭(らっぱ)保存会の「国の鎮め」などが吹奏されるなか、「御英霊御霊依代」と「御奉遷御祭神御社」の帰国を祝う式が盛大に催された。かくて「日本人よ、忘恩の徒となるなかれ」との桐山師の遺志は受け継がれてゆく―。

戦いの記憶呼び覚ます 映画監督・新城卓氏

洋上法要に参加した新城卓氏

この洋上法要に映画監督・新城卓氏が参加していた。新城氏は、真岡の電話交換手の乙女たちの最期を描いた「氷雪の門」(昭和49年公開)で助監督を、沖縄への航空特攻に殉じた若者たちを描いた「俺は、君のためにこそ死ににいく」(石原慎太郎氏原作、平成19年公開)で監督をつとめた。大東亜戦争における「北」と「南」の戦いに殉じた日本人を描いた映像作家として、桐山師の戦跡巡礼の旅に大いに共感したという。

「私は昭和19年2月に沖縄で生まれた。やがて陸上戦闘における最大の激戦を繰り広げる地で産声を上げたのは、自分にとって日本との宿縁だと感じている。沖縄は被害者だった、本土の犠牲にされたという声ばかりがクローズアップされるが、そんな一方的な話でいいのか。むしろ沖縄県民は日本国民として最後まで立派に戦い抜いた。私は、その誇りこそしっかり持ちたいと思っている。だから沖縄の人からは“沖縄人なのに何だ”と気色ばまれることもあるが、私は沖縄人であると同時に日本人である。
あの戦争の大きな歴史的意味を考え、歴史の多様な真実の中から何を汲み取るか。この視点なくしては沖縄と本土の関係も見えてこない。過去の歴史を反省することは、偉そうにあの時代の日本人を一方的に糾弾することではなく、その苦悩、葛藤、決意の言葉に真摯(しんし)に耳を傾けることだ。御先祖の声を虚心に聞くこと。その意味で北方の戦いの記憶を呼び覚ましてくれる旅に参加できたのは非常に有意義だった」

こう語る新城氏は、信徒によって一枚ずつ英霊への感謝の言葉が記された万に及ぶ「散華」が海上を風に乗って舞い去っていく光景をデッキで眺めながら、静かに「海ゆかば」を口ずさんでいた。

刻々と変化する幽玄の美しさ

7月3日夕方、巡礼船は北海道北部、稚内沖の利尻島を右舷に眺める海域を進んでいた。当初大泊を出港して南千島に沿って北上、得撫(うるっぷ)海峡を通過して北太平洋に出る予定だったのだが、ロシア海軍から急遽(きゅうきょ)、「貴船進路上で演習を行うため転進されたし」の通報があり、南千島の洋上から折り返し、稚内から西岸の日本海を下って津軽海峡に入り、時間的に可能な限り北太平洋上を目指すという航路に変更していた。ハプニングだったが、そのときの夕焼けは、幽玄とも幻想的ともいえるすごみのある美しさで、景色は刻々と変化し、「英霊とともに帰国する桐山猊下の満足感、信徒の努力に対するねぎらいの思い、“ご苦労だったね。諸君、ありがとう”という言葉が聞えるようだった」と和田理事長は語った。信徒もまたデッキに出て、歓声を上げながら夕景の写真を撮っていた。

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