阿含宗世界平和祈念 ビルマ戦没者成仏供養 神仏両界 ミャンマー解脱護摩法要

わが国は平成から間もなく新しい御代を迎えようとしている。明治以後、父祖たちは過酷な時代に祖国の独立のために苦闘を続け、今日の平和な日本をもたらしてくれた。数次の戦争によって多くの命が失われたが、そこには戦わざるを得ない理由があった。後生の安寧を願って命をささげた父祖たちを供養し、その絆を結び直す―。長く国内外の戦跡巡礼を続けた阿含宗開祖・桐山靖雄師が95歳で遷化したのは平成28年8月。その実践躬行は信徒に堅固に受け継がれ、昨秋、先の大戦の激戦地ビルマ(現ミャンマー連邦共和国)において戦没者の成仏と世界平和を祈念する護摩法要が挙行された。(上島 嘉郎)

13万7千余柱が散ったビルマ戦線

バガンに残るパガン朝時代の仏教遺跡

ビルマは、諸部族による長い割拠時代を経て、11世紀半ば頃に最初の統一王朝であるパガン朝が成立。その後、タウングー朝、アラウンパヤ朝と続いたが、第三次英緬戦争に敗れ、明治19(1886)年英領インドに編入されると昭和18(1943)年、バー・モウによって「ビルマ国」として独立宣言が発せられるまでの57年間イギリスの植民地だった。ビルマ族が約7割を占め、人口の約85%が仏教徒の国である。

日本との関係では、20世紀初頭のビルマ人に大きな影響を与えたのが日露戦争(明治37~38年、1904~05年)の日本の勝利だった。バー・モウは第二次大戦後イギリスで刊行した回想記『ビルマの夜明け』でこう述べた。

「私は今でも日露戦争で日本が勝った時の感動を思い起こすことができる。(略)その感動はあまりに広く行きわたっていたので、幼い者をもとりこにした。たとえばその頃流行した戦争ごっこで、幼い我々は日本側になろうとして争ったりしたものだ。こんなことは日本が勝つまで想像もできぬことだった。(略)それは我々に新しい誇りを与えてくれた」

昭和16(1941)年12月8日、日本は米英に宣戦布告した。同年7月、米国に在米日本資産を凍結され、英蘭もそれに追随した。8月には日本への石油輸出が全面的に禁止され、11月、事実上の最後通牒である「ハル・ノート」を突きつけられたことで戦わざるを得ないと決断した。戦争目的は支那事変(日華事変)の解決と資源の確保、アジア諸国の独立機運の振起にあった。

日本軍は昭和17年1月、ビルマから中国雲南省に通じていた蒋介石への支援路(援蒋ルート)を遮断し、支那事変の早期収束とインドにおける対英離反工作を促進するためビルマに進攻した。遡る16年1月、ビルマの独立援助を視野に入れた大本営直属の「南機関」を設立し、ビルマ独立をめざす青年30人に教育と訓練を施し「ビルマ独立義勇軍」(BIA)のリーダーを育成した。この中にのち「建国の父」と呼ばれるアウン・サン、大統領となるネ・ウィンらがいた。

ビルマ進攻作戦は、第15軍麾下の各師団の奮戦によって開始から約半年で英印軍を追い落とし初期の勝利を得た。30人の独立の志士を中心に編制されたBIAも「ド・バーマ(ビルマ独立万歳)」を合言葉に日本軍とともに英印軍と戦った。

イギリスによって収監されていた独立運動家バー・モウが日本軍によって救出されると、第15軍は彼を首班とする行政府の設立を進め、昭和18年8月1日、「ビルマ国」の独立を承認した。バー・モウは「人々は喜びに胸をふくらませて、至る所で歌った。(略)人々は集い、日本語で“万歳”を叫んで、日本に対する深い感謝を現わす決議をした」と綴った。

だが、この歓びは長くは続かなかった。蒋介石の重慶軍、米軍、英印軍は戦力を増強し、日本軍を圧倒する大軍をもって侵入の機会をうかがい始めた。乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦をやらなければ自滅するほかない。昭和19年3月、第15軍司令官・牟田口廉也中将は「インパール作戦」を発動し、東インドのインパールを攻略して英印軍の侵攻を防止、チャンドラ・ボースの自由インド仮政府を支援する橋頭堡を築こうとした。しかし、航空兵力の支援を受けた英印軍の強力な反撃に補給の途絶した日本軍は戦線を支え切れず、7月には撤退命令が出された。

日本軍はインパール作戦で戦力の過半を失ったが、同年12月から翌20年夏にかけてメイクテーラやイラワジ河畔で英印軍と、雲南方面で中国軍と熾烈(しれつ)な戦闘を続けた。敗勢の中、将兵たちの後退は悲惨を窮めた。飢えと病気、疲労によって次々と密林に斃(たお)れ、撤退路には日本兵の死体が無数に転がり、それは「白骨街道」と呼ばれた(厚労省によればビルマ方面での日本人戦没者数は約13万7千人)。

日本とともに戦ったBIAの志士たちも分裂した。バー・モウは日本と行動を共にした。日本を裏切るのは恩義に欠けると自決した者もいた。一方、アウン・サンは敗勢に傾いた日本と共倒れになるわけにはいかないと反日に転じ、日本軍を攻撃した。アウン・サンはバー・モウに手紙を送り、「反日に立つのはビルマを生き残らせる唯一の方法」と苦衷を明かしたという。日本敗戦後の昭和23(1948)年1月4日、ビルマは英連邦を離脱し「ビルマ連邦」として独立した。

桐山靖雄師の思い

桐山師の遺志は信徒たちの強い思いによって受け継がれている(写真は平成26年10月、福島での法要)

故桐山師の戦没者成仏供養の旅は昭和52年のパラオ諸島から始まり、以後、沖縄、ハルビン、ポーランド、シベリア、台湾、ガダルカナル、パプアニューギニア、フィリピン、サイパン・テニアンなどに及んだ。

「父祖たちはなぜ戦わねばならなかったのか。辛酸に耐え、白人列強との不平等を撃ち破って祖国の未来を開こうとした。私はその時代に青春を送った。あの戦争は日本が好んで起こしたのではなく、極限まで追い詰められ、やむなく自存自衛のために立ち上がったものだ。なぜこの事情が今の日本人には分からないのか。敗戦という結果から当時の日本人は間違っていた、愚かだったと非難するのは卑怯(ひきょう)であり、短絡的にすぎる」

桐山師は生前、何度もそう語った。

「結核に冒されたため召集されず、多くの学友を戦場に見送るしかなかった。当時の若者にとって国を守るのは普通のこと。代わりに戦ってくれた彼らを忘れることはできない。生かされた私は“申し訳ない”という心の痛みを抱えて戦後を過ごした。彼らの死を無駄にしない。そして、“靖國神社で会おう”と言って逝った彼らへの感謝を忘れない。千万人と雖(いえど)も吾往かん。彼らとの絆を忘れぬことが未来を切り開く力となる」

こうした信念と、無念の死を遂げた御霊(みたま)をいかに成仏させるかという仏法者としての使命が重なり合って、長年月にわたる戦跡慰霊の旅となった。戦争を知らない世代の信徒にも桐山師は日本人としての情理を諄々と説き、95歳まで自ら遠い戦跡に赴いて法要を指揮する姿は古参の信徒を奮い立たせた。

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」。戦後、南方から帰還した元日本兵たちはこんな言葉を口にしたという。それを知る桐山師は、パプアニューギニアでの法要を挙行したのち、いつかはビルマに行かねばと語っていた。それが昨秋、「開祖の御遺志を継ぐ」という信徒たちの強い思いによって実現した。

ビルマで戦い続けた父祖たちの御霊に感謝の思いを

日本人墓地での「ビルマ戦没者成仏供養法要」

平成30年11月9日午前、ヤンゴン市内エーウィ日本人墓地内にある「ビルマ平和記念碑」の正面祭壇に日本とミャンマー連邦共和国の国旗が掲げられ、真正仏舎利と開祖真身舎利、英霊の帰国のための「御霊依代(みたまよりしろ)」が安置された。周囲は緑の樹木に囲まれ、穏やかな日差しの中、約150人の信徒が祭壇に向き合っていた。記念碑はビルマ方面で戦没した全ての人々の霊を慰め、恒久平和を祈念するため、昭和56年に日本政府が当時のビルマ連邦社会主義共和国政府の協力を得てチャンドゥ日本人墓地に建立したものが、平成10年にヤンゴン市の要請で移設された。周辺にはビルマ戦に参加した各兵団の慰霊碑も建てられている。

法要を執り行う、ブータンで修行した清川靖法少僧正

初めに公益財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会による慰霊祭が行われた。秋上眞一代表理事による式辞、参列者による国歌斉唱、黙祷ののち、靖國神社と栃木県護国神社の神職による〈御神事〉が執り行われた。阿含宗本庁理事長・和田靖壽(せいじゅ)中僧正、深田靖阿(せいあ)法務管長ほか参列の信徒みなが神道の次第にのっとって英霊に頭(こうべ)を垂れる。日本人の神仏和合の一景がそこにあった。

その後、深田法務管長による「ビルマ戦没者成仏供養法要」が厳修され、桐山師が生前の法要で英霊に語りかけた言葉が拡声器を通じて流された。

「皆様を日本にお迎えするために御社(おやしろ)を設(しつら)えて参りました。長い間お待たせして申し訳ありません。本当に御苦労さまでした。心の底から感謝申し上げます」。しみじみとした声音(こわね)だった。

一行は翌日、空路バガンに移動した。イラワジ川中流域の東岸に広がる平野一帯に大小さまざまな仏塔や寺院が点在するビルマ屈指の仏教聖地である。そしてイラワジ川を挟んで日英両軍が対峙(たいじ)した場所でもあった。

イラワジ河畔で厳修された護摩法要

11日午前、イラワジ河畔で「阿含宗世界平和祈念ビルマ戦没者成仏供養 神仏両界ミャンマー解脱護摩法要」が厳修された。ビルマは旧国名、ミャンマーは戦後、多くの少数民族を抱える連邦制国家として歩み始めてからの国名だ。戦前と戦後の歴史をつないで、全ての戦没者、殉難者の御霊の成仏を願って護摩壇に点火された。戦没者の名や請願を記した護摩木が投入され、鎮魂と浄化の炎が赤々と立ち上る。朗々たる読経がイラワジ大河の川風に乗って、メイクテーラやマンダレー、さらに遠いコヒマ、中国との国境沿いで戦い続けた父祖たちの御霊に届けと広がってゆく―。

その後、一行はイラワジ川を航行する船に乗り込み、夕陽に照らされた川面に“散華”した。蓮弁(れんべん)の形をした紙片には信徒によって1枚ずつ英霊にささげた言葉が手書きされ、感謝の思いとともに数万枚が風に舞って、きらめき散っていった。きっと父祖たちも見た七十有余年前と変わらぬであろう、美しい夕景だった。

感謝の思いを込めた散華が投じられた

同夜、法要の行満懇親会が一行の宿泊先のホテルで開かれた。信徒の尽力に対する謝辞のあと和田理事長が「開祖の御遺志を継いで供養の旅はこれからも続きます。弟子として真摯(しんし)に懈怠(けだい)なく修行に邁進し、開祖とともに御英霊に感謝し、みなで明日の日本と世界の平和を築いていきましょう」と語りかけると、ひときわ力強い拍手が起きた。新しい御代にも、こうして英霊への感謝を忘れぬ日本人の歩みが続いていく。今年も2月11日、数えて46回目となる「阿含の星まつり」が本山で開催される。桐山師が燈した火は、日本の安寧と弥栄、世界の平和を祈って京都の冬空を赤々と照らすだろう。

アジアに生きる桐山師の教え

「アジアは人類の未来を担う希望に満ちた地域であると同時に、破滅的権勢に脅かされている危険な地域でもある」

桐山師がこう語ったのは平成25年11月10日の「阿含宗台湾本山道場落慶奉祝・東アジア平和祈念護摩法要」においてだった。桐山師は「アジアの平和こそが世界の平和につながっている」とも語り、アジア各国との絆を強めることに腐心した。

ビルマでの法要に先立ち、昨年6月に「阿含宗世界平和祈念 神仏両界 シンガポール解脱成仏御聖火護摩法要」が台湾本山の信徒らとともに厳修されたのもその遺志を継いだものだった。

また11月4日には、「第26回 スリランカ阿含宗友好財団奨学金授与式」がコロンボ市内で開催された。「教育こそ平和の礎」という桐山師の理念が実践されたもので、師の教育支援は多数の国に及ぶが、スリランカでは24年前から昨年までに約1万5千人の若者が支援を受け有為な人材に育っている。

桐山師とスリランカの縁は古い。昭和26(1951)年のサンフランシスコ講和会議にセイロン(現スリランカ)代表として出席したジャヤワルダナ蔵相は、ソ連が日本の主権回復を制限しようとするのに対し演説に立ち、「日本の掲げた理想に、独立を望むアジアの人々が共感したことを忘れないでほしい」と訴えた。さらに南伝『阿含経』の一つである『法句経』にある「憎悪は憎悪によってはやまず、慈愛によってのみやむ」との一節を引用し、日本への賠償請求を放棄する旨を宣言した。桐山師はそれらへの感謝を常々口にしていたという。そして昭和61(1986)年、大統領となっていたジャヤワルダナ氏から阿含宗は真正仏舎利を授与された。奇縁というほかない。スリランカ阿含宗友好財団が設立されたのはその7年後、以後阿含宗による教育支援が始まった。桐山師の遺志は日本国内だけでなく、アジア各国で受け継がれている。

〈企画・制作〉産経新聞社メディア営業局

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