阿含宗世界平和祈念 幕末維新動乱犠牲者解脱成仏 神仏両界 大柴燈護摩供

平成30(2018)年は、明治維新から150年の節目だった。徳川の幕藩体制から近代国家へと生まれ変わる歩みは、同胞が相争った戊辰戦争という苦難と共にあり、尊皇を奉じながら戦いに敗れた側は涙をのんだ。その記憶はけっして遠いものではなく、今日に至るも幕末維新を回顧する日本人に複雑な思いを抱かせる。令和の時代を迎えた今、そうした父祖たちの無念を解き、同胞としての絆をより強く結び直す―。国内外で戦争や自然災害などの殉難者慰霊を続けてきた阿含宗開祖・故桐山靖雄師の訓えを受け継ぐ信徒たちによって、今秋「幕末維新動乱犠牲者解脱成仏 神仏両界 大柴燈護摩供」が福島県会津若松市で挙行された。(上島嘉郎)

国難に立ち向かった幕末維新の日本人の気概と心情

国に尽くした「明治維新」と「戊辰戦争」

我が国は嘉永6(1853)年のペリー来航以後、進むべき道をめぐって動乱の時代に突入した。戊辰戦争は慶応4(1868)年(戊辰)1月から翌年5月にかけて倒幕派と佐幕派との間で戦われた。慶応4年9月に明治と改元されたが、「明治維新」と「戊辰戦争」どちらの言葉を用いるかによって歴史観は異なる。

薩長両藩中心の倒幕派に対し、奥羽30余藩が佐幕派として立った。司馬太郎は、長岡藩家老河井継之助の生涯を描いた『峠』で、奥羽列藩同盟は「独立国の観」があり、「その代表は仙台藩であるが、その最大の戦闘団は会津藩であり、これを破ることに新政府は全力をあげねばならない」と書いた。会津藩は白虎隊の悲劇でも知られるように、新政府軍を相手に落城まで3カ月にわたる死闘を繰り広げた。

飯盛山(会津若松市)にある白虎隊自刃の地

司馬さんは『峠』の中で「人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理」で、「人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教」「この二つが、幕末人をつくりだしている」とし、「侍とはなにかということを考えてみたかった」と執筆動機を述べた。

倒幕派も佐幕派も、こうした幕末の侍であると考えるならば、あたかも溶鉱炉のなかで鉄が鍛えられる熱の高さと、国事に奔走する人々が内包した矛盾や衝突の激しさはその「武士道倫理」ゆえで、そこには教養の有無や性格の激情、温厚などといった人間個々に帰する要素があるものの、ただ戦いの憎悪や怨恨に帰すべきではない「国に尽くす」姿が共にあった。

そうであるからこそ同胞相食む無念や怨念が人々の間に長く続いてはならない。それを解いて御霊(みたま)の成仏供養を果たすというのが桐山師の宿願だった。

皇學館大学教授、松浦光修氏の労作『明治維新という大業』に、山川健次郎が明治37(1904)年に語った言葉とともに、その心情を汲む意味が説かれている。

「癸丑(きちゅう)・甲寅(こういん)〔注・嘉永6年と安政元年〕の歳より以来、国事に奔走せし者、たれか勤王の士ならざらん。ただ佐幕勤王と排幕勤王との差あるのみ。わが邦(くに)維新史の多くは、排幕勤王家の手になれるをもって、ことの真相をえざるもの、少なからず」(北原雅長『七年史』序)。

山川は白虎隊出身で、維新後の明治4(1871)年渡米、エール大学で科学を学び、日本人初の理学博士となり、東大、九大、京大の総長を歴任するなど明治の教育に尽くした。山川が嘆いたのは、会津藩は尊皇を以て行動した。それがなぜ「賊軍」の汚名を着せられねばならぬのかということだった。新政府のみを正義として歴史が語られるとすれば、それに対する無念と異議申し立ては宜(むべ)なるかである。

平成30年1月の通常国会で安倍晋三首相は施政方針演説の冒頭、山川健次郎を取り上げた。「今こそ新たな国創りのとき」と訴えた安倍首相は旧長州藩がルーツ(山口4区選出)だ。首相はその後の国会論議の中で、倒幕・佐幕の両派を「西軍」「東軍」と表し、「西軍が正しくて東軍が悪いということではない」と述べた。首相が山川を取り上げたのは、今日の日本国民が様々な意見対立を乗り越えて一体となり、共に「国難」に立ち向かうために、その気概と心情を改めて幕末維新の日本人に求めたかったからであろう。

戦いはどの国の歴史にも刻まれている。日本列島にもそこに生きる人々の戦いがあった。司馬さんの『峠』から一文をかりよう。

「この列島は、当初、西南(九州)からひらけた。九州でそだったエネルギーが、しだいに北上して瀬戸内海、大阪湾沿岸、大和(やまと)、びわ湖周辺におよび、やがて大陸から、国家のつくりかたというあたらしい概念が入ってきて、大化改新が成立し、日本民族が国家というもののなかで組織された」

私たちのルーツは一つではないが、衝突と融和を積み重ね、今日概ね一つの民族国家としてまとまった。一都一道二府四十三県という区分の中で「県民性」という特徴をそれぞれに持ちながら、歴史に培われた「日本人」という意識を共有している。

殉難者慰霊、成仏供養で日本人に必要な態度を訴え続けた桐山師(写真は平成26年10月、福島県相馬での法要)

靖國神社に「鎮霊社」という社があり、西郷隆盛も、白虎隊も、戊辰戦争の佐幕派も祀られている。明治政府は、佐幕派の戦没者についてそれぞれの地域で祀るのは構わないとする太政官布告を出した。戦(いくさ)は必ず敵味方に分かれる。明治政府が自らに付き随った犠牲者の遺族に対し、敵も味方も同じように処遇するとは人情からもすぐには言えることではなかった。そこで政府は、我々としては味方を祀るが、戦において敵方になったとはいえ、その地に尽くした人々を祀ることは構わないと表明した。それは情理にかなうものではなかったか。

国家統治の正統性を保ちつつ、同胞相食んだ痼(しこり)を解いてゆく。近代国家建設の過程で生じた内戦と、その後の融和に苦悩した明治の人々の歴史が靖國神社にはある。矛盾も不合理も抱えてはいるが、誰かを一方的に責めることなく、怨念や否定の感情を抑え、苦悩を共に抱きしめることが日本人の過去と未来のために必要な態度ではないか。桐山師の殉難者慰霊、成仏供養の旅路はそのことを訴え続けたように思う。

御霊の安らぎなくして国土の安穏なし。御霊の鎮めなくして家庭の安穏繁栄は望めない。

会津鶴ヶ城に鎮魂と浄化の炎

玉鉾神社(愛知県)の旭形宮司によって執り行われた御神事

9月8日午前、会津鶴ヶ城の城址公園内に「鎮魂浄霊解脱供養」と白地に墨書された幟旗(のぼり)が立ち並び、祭壇正面に真正仏舎利と阿含宗開祖眞身舎利が安置された。祭壇前に神界・仏界二つの護摩壇が設えられ、それを囲むようにコの字型に配置されたテント席には全国から参集した約2千人の信徒が法要の開始を待っていた。残暑の強い日差しが照りつけている。

「御霊の安らぎなくして国土の安穏なし。御霊の鎮めなくして家庭の安穏繁栄は望めない」

桐山師の訓えの言葉とともに「幕末維新動乱犠牲者解脱成仏 神仏両界 大柴燈護摩供」が厳修された。山伏行列、山伏入壇に続いて御神事(御神楽奉納)が執り行われる。和田靖壽(せいじゅ)中僧正、深田靖阿(せいあ)法務管長をはじめ参列者みなが神道の次第にのっとって殉難者に頭(こうべ)を垂れた。神仏和合を以て御霊を鎮める―。

鎮魂と浄化の願いを込めて行われた護摩法要

すべての御霊の安らかならんことを祈る「願文」が奉読されたのち、二つの護摩壇に点火された。人々の無念や怨念が解かれ日本が一つになることを願う、その思いが記された護摩木が次々投入されると、晴れ上がった青空に薄灰色の煙が巻き上がる。やがて赤々とした炎が立ち上がって、鎮魂と浄化の願いが大きく燈し続けられる。朗々たる読経が緑の樹間を抜けて鶴ヶ城から会津盆地、さらに奥羽全体に届けとばかり広がってゆく。桐山師亡きあとの護摩供は、信徒たちにとってより真剣な修行の場になった。和田中僧正、深田法務管長に随伴して脇導師をつとめ、自ら師を追いかける覚悟を固める。大きな炎と強い日差しに耐えながら務めるその姿は、「志を受け継ぐ」ということを体現しているかのようだ。

桐山師の生前の言葉が法要会場に伝えられる。師は平安初期の蝦夷(えみし)の族長で北上川流域一帯に蟠踞(ばんきょ)したアテルイの悲劇に触れつつ、こう語った。

「人来たり、去り、また来る。歴史の流れは涛々たる果てなき大河の如くである。新しき力は常に古き力を押し流す。愛彌詩(えみし)の雄々しく美しい人たちは、滅び去ってしまったのであろうか?そうではない。かれらは私達の血の流れの中に、脈々と生きているのである。エミシは、ムツとなり、美(うま)し国(くに)とよばれたヤマトとなった」

これは、この列島に生きる者が葛藤を経て辿り着いた安穏、そこに至る戦いから生まれた怨念を浄化し、「和」で結ぼうとする桐山師の思いである。長い歴史を持つ国ほど、人々の怨念や無念は、時の流れに薄れることなく、斃(たお)れた地にとどまっている。そしてそれが現代を生きる私たちに影響を及ぼしているかも知れない。後世の私たちは先人に感謝しながらも、先人の怨念や無念に惑わされ、引き摺られてはならない。

桐山師はそう説いた。御霊の成仏を願って奉修されてきた成仏供養護摩法要の意味は、きっとそこにあるのだろう。苦悩を分かち合い、大いなる「和」を見出す。困難に立ち向かうときの信念と寛容を身につける術(すべ)がそこにある。

戊辰戦争が映し出した日本人の姿

会津の怨念の理由の一つに、新政府が戊辰戦争後も「賊軍の死骸に手を付けてはならぬ」と命じ、約1400の死骸が半年近く放置されたことが挙げられてきた。長く信じられてきたが、平成29年12月に発見された「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」によれば、会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)に新政府は埋葬を命じ、翌3~17日にかけて会津藩士4名が中心になって567の遺体を64カ所に埋葬したという。経費は74両。延べ384人が動員され、1人当たり1日2朱が支給されたと具体的な記録だ。

新聞でも報じられ、記事は「藩士がすぐに埋葬されたことがわかり、喜ばしい。長州への怨念の障壁が取り除かれ、会津若松市民と山口県萩市との友好関係が築けたらうれしい」という研究者の言葉を伝えた。

戊辰戦争は様々な日本人を映し出す。薩摩藩と庄内藩の関係について当事者の後裔(こうえい)と言える鶴岡市出身の故渡部昇一氏はこう語った。

庄内藩は幕府譜代の名藩で、幕末には江戸市中取締として、騒擾(そうじょう)の策源地と見なされた江戸薩摩屋敷焼討ちを敢行した。東北戦争では勇戦し、秋田方面に出撃した庄内部隊は薩軍の主力に大打撃を与えた。それゆえに庄内鶴岡城の落城にあたっては、藩主も重臣たちも、薩軍の報復と厳罰を覚悟した。城を受け取るために鶴岡にやってきた官軍の代表は黒田清隆であった。

「彼は致道館の『お居間』(「お入りの間」ともいう)で帰順者の藩主酒井忠篤に降伏条件を言い渡した。もちろん黒田が上座で藩主は下座である。しかしこの儀式が終わると、黒田は藩主を上座に移し、自分は下座に廻り、その応接の態度は恭敬で、あたかも賓客を遇するが如くであった。そして降伏条件も、他藩の場合に例のない寛大なものであった。降伏した藩主や藩士らはいかなる処罰を受けるかと心配していたのであるが、思いの外の取り扱いに感激し、『これぞ王師である』と思ったのである。しかもこの指示が、黒田の背後にあって表に出てこなかった西郷から出たものであることを知り、全藩挙げて西郷の崇拝者になったのであった。その後間もなく、旧藩主忠篤は百人ばかりの藩士を引き連れて薩摩に行って、そこで軍事訓練を受け、庄内武士と薩摩武士はすっかり仲よしになった」(『現代語訳 大西郷遺訓』林房雄編/新人物文庫[解説]より)。

西郷隆盛の語録はこうした縁から薩摩人ではなく、維新動乱における正面の敵であった庄内藩士の手によって書きとめられ、出版された。西南戦争前、西郷を慕って薩摩に赴いた庄内藩士たちが西郷の話を聞き書きし、明治22(1889)年2月11日の「大日本帝国憲法」発布の日、明治天皇が西郷の賊名を解かれたとき、庄内藩家老で西郷と昵懇(じっこん)だった菅実秀が『南洲翁遺訓』の編纂(へんさん)を命じた。世に出たのは翌明治23年4月である。

〈企画・制作〉産経新聞社メディア営業局

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